商材に別の光を当てて生き返らせたい

“ノンフィクションのフィクション化”の法則

2016年3月2日

 

以前ご紹介した“フィクションのノンフィクション化”の法則では、架空の存在(=フィクション)を現実世界に表出させる(=フィクション化)という法則でした。

 

 

今回は、その逆の法則になります。

 

すでにみんなが信じている事実や物語(=ノンフィクション)には、実は裏のストーリーが隠されていたのでは?と問いかけることで、事実をフィクションに変えて深みと驚きを与える“ノンフィクションのフィクション化”の法則です。

 

 

 

[Chapter 1] 事例から法則を読み解く

なぜ、漫画「さよならソルシエ」に惹き込まれるのか?

 

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「このマンガがすごい!2014」にて、オンナ編の1位に輝いた「さよならソルシエ」。

きっと読まれた方も多いのではないでしょうか。

 

ここでは、細かいディテールの面白さはいったん置いておき、この漫画の設定自体の秀逸さ、面白さについて触れたいと思います。

(物語の核心部分について触れますので、ネタバレはちょっと…という方は、申し訳ありませんがご遠慮ください。)

 

 

 

 

まず、この漫画の設定の確認です。

 

本作のストーリーは、歴史的な画家として知られる「ゴッホ」を題材とした、ある種の“オマージュ”のようなもの。

ただし、多くの人が信じている「ゴッホはゴーギャンとの共同生活で耳を引きちぎった異能者」という事実とは、設定がかけ離れています。

 

本作には、「ゴッホ」が2人、出てきます。

 

天才画家だが、自らの絵を広めようともしない兄・ゴッホ(左)。

天才画商だが、絵の才能はなく兄に嫉妬を抱く弟・ゴッホ(右)。

 

 

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兄弟がいたこと自体は、事実として周知されているようです。

(僕はここから知りませんでした。。)

 

ただし、弟が天才画商、といった史実は残されておらず、彼は兄を経済支援する気の優しい画商で、兄が拳銃自殺してしまった後に精神錯乱に陥り、梅毒で死んでしまったという説が有力です。

 

 

しかしこの物語は、最終的には、みんなが信じる事実へと帰着してく。

それには、どのようなストーリーを辿るのか?

 

 

天才でありながらも、平凡な毎日を送りながら絵を描く、兄・ゴッホ。

絵を描きたくても兄のようには描けない弟・ゴッホは、そんな兄の姿を見かね、 苛立ち、嫉妬しながらも、その絵の才能に惚れ込み続けます。

 

それについての細やかな描写が、この設定に大変リアリティをもたらすのですが、述べたい本筋とはズレてしまうため、ここでは触れません。(すみません。)

ただ、弟・ゴッホは様々な葛藤を乗り越えながら、 ついに兄の展覧会を開くところまでこぎつけます。

 

しかしその矢先、兄は強盗に殺されてしまうという事件が起こるんですね。

 

世に語り継がれている偉人たちのような、波瀾万丈のドラマもなく死んでしまった、兄・ゴッホ。

そうした”ふつうの人間”としての絵だと、きっと、 後世にまで兄の絵は残らない。

 

そう考えた弟は、どのような行動に出たか。

なんと、戯曲家に依頼して、平凡な兄の人生を、“狂気と孤独の中でもがき続けた人生”へと書き換えることを画策してしまいます。

 

 

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途中で街に出てきた兄を、ずっと田舎で暮らし続けていたことに。

兄弟同士の葛藤の中で吹き飛ばれた兄の耳を、ゴーギャンとの共同生活で切断したことに。

そして、兄をずっと慕い続けてきた自らを、兄の後追い自殺をする悲劇の人にーーー。

 

 

 

我々がいま信じているのは、あくまで事実の断片でしかありません。

この漫画の話が真実の可能性も、全くの否定はできないかもしれないのです。

 

 

僕らが知っているゴッホの人生とは、果たして本当だったのか?

誰かが都合の良いように事実を捻じ曲げ、書き換えたのではないか?

 

本当の真実とは、一体なんだったのか?

 

 

そう問いかけずにはいられなくなるような、見事な物語の再構築が行われています。

 

 

自分が信じて疑わなかったものが、実は嘘かもしれない。

 

 

このことに気づくと、人は、真相を確かめたくなるという普遍的な欲求に駆られます。

(そのメカニズムについては、以前ご紹介した“謎の欠陥・欠落”の法則の、“「人は自分の知識に“隙間”を発見すると埋めたくなる」という普遍性”という章をご覧ください。)

 

 

同様の構造をもつ作品として有名なのが、一世を風靡したダビンチ・コードでしょう。

 

 

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ご存じの方も多いと思いますので詳しくは述べませんが、ノンフィクションたる「モナリザの絵」に歴史とは違う解釈を加え、本当の真実を追うサスペンスでした。

 

 

「さよならソルシエ」でも「ダビンチ・コード」でもそうですが、史実(ノンフィクション)として伝わっている歴史の象徴的な断片(ゴッホには片耳がない、モナリザは単なる秀作)を頼りにしながら、“史実には残っていない真実”を描くことで、皆の信じるノンフィクションをフィクションにしてしまう。

 

 

かなり高度な構成力が必要とされますが、飽々とした物語に全く違う視点からスポットライトを当て、価値を再構築する強力な手法だと思います。

 

 

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[ “ノンフィクションのフィクション化”の法則|Point ]

「既存の物語」や「史実」に着目し、伝えたいモノ・コトとの接点を考える

皆が事実だと信じている物語の「象徴的な断片」の誕生背景に、別の解釈を加えて真実を紡ぐ

「陰謀」「葛藤」「滑稽さ」など、“人間らしい感情の動き”を織り交ぜると真実らしさが増す

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以降では、この法則を念頭に置きながら、活用イメージを深めていきます。

 

 

 

[Chapter 2] 法則から事例を読み解く

みんな知っている「童話」をフィクション化すると?

 

“ノンフィクションのフィクション化”の法則を、ノンフィクション=童話と捉えて考えてみます。

 

 

では、たとえばみんなが知っている童話・桃太郎だと、どのようなフィクション化が可能か?

 

 

…と聞いて、真っ先に思い浮かぶCMがいくつかあるのではないでしょうか。

 

そう、たとえば現在auのCMでも放映されている三太郎シリーズであったり、

 

 

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ペプシコーラが小栗旬さんを主演に迎え、さながら映画のようなフィルムで桃太郎を描いたシリーズであったり。

 

 

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これらのCMはいずれも童話・桃太郎をベースとしながらも、auでは他の太郎(浦島太郎、金太郎)と実は友達だったという真実が描かれ、ペプシでは映画さながらの劇画タッチと物語でストーリーが展開されます。

 

 

実はこの「既存の童話をフィクション化する」という手法は海外でもよくみられ、有名どころで言えば、英メディアGuardianが“open journalism”を掲げて放映したCM「Three Little Pigs advert」がそうです。

 

 

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タイトルの通り、モチーフは「3匹のこぶた」。

 

多くの人が知っているストーリーは「3番目の子豚が狼の息(風?)でも壊れないレンガの家を作って撃退した」というところまでだと思いますが、実際の童話では、実は子豚たちは狼にリベンジしています。

なんでも狼は最後、煙突から進入しようとしたところを煮えたぎる鍋に落とされ、スープにして子豚たちに食べられてしまうとのこと。

 

 

そしてこのCMの物語は、鍋に狼が落ちたところから始まります。

 

まず、子豚たちは、狼への殺人容疑で逮捕されてしまいます。

さらに捜査を進めると、狼は子豚たちの家を吹き飛ばす嫌がらせをしていたのではなく、単なる喘息をかけただけだった可能性がYoutubeの動画から指摘され、さらには狼に保険金がかけられていたことが発覚し、すべては子豚たちの計画した保険金殺人だったというオチに。

 

その後の展開もまるで現実世界のようですが、お金に困っていたという子豚たちの殺人動機に世論は同情に傾き、ついには各地でデモが発生…と、かなり大掛かりなストーリー展開となっていました。

 

 

例を挙げるとキリがないためこの辺にしますが、特に童話はほとんどの人が知っていますので、「その物語には、実は裏(真実)がある」といった演出は、非常に人を惹き込みやすいと考えられます。

 

 

余談ですが、CMは15秒〜という非常に短い尺の間に、

強いインパクトを残しながらできるだけわかりやすく、

多くの伝えたいことを伝える必要があります。

 

そのため、“ノンフィクションのフィクション化”の法則は、

 

・みんなが既に知っている童話(=わかりやすい)を題材にしながら

・実は真実の物語はこちらですよ(=強いインパクト)と展開させることで

・短時間でも伝えたいことを詰め込んで伝えやすい

 

という特徴が活かされやすく、近年好まれる傾向にあるように思います。

 

 

 

法則の活用イメージを膨らませる事例はこの辺にして、最後は実際に活用方法を模索していきます。

 

 

 

[Chapter 3] ブレスト・トライアル

「鶴の恩返し」をフィクション化して過激な動物愛護を問題化できないか?

 

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これまでご紹介してきた法則のポイントや事例をもとに、「鶴の恩返し」を題材に、フィクション化した物語を少し考えてみました。

 

鶴の恩返し、といえば、簡単にあらすじをまとめてしまえば「罠にかかって怪我をした鶴を翁が助け、その恩返しに鶴が人間の女性に姿を変えて翁とその妻に恩を返す」というお話。

 

そして、鶴の折った布は売れに売れ、不思議に思った老妻の方がこっそりと襖の奥を覗いてしまったがために、鶴であることがバレて飛び去ってしまう、というストーリーでした。

 

 

では、ここである真実(設定)を組み込んでみます。

 

 

 

実は、鶴がかかった罠は、翁が仕掛けたものだったとしたらーー

 

 

 

この真実によって、物語のあらゆる部分が根底からひっくり返ります。

 

そう、たとえば。

 

 

実は、翁は日々呑んだくれで、ろくに仕事もしない人間だった。

 

しかし、「鶴が人に化けて売れる布を織る」という噂をどこかで嗅ぎつける。

 

試しに罠でも仕掛けて助け、恩を売ってみるかーーそう、鶴を助けたのは、自作自演。

 

身を削って必死に売れる布を織る鶴。しめしめ、とほくそ笑む翁。

 

だが目を離した隙に、妻が襖の奥を覗いて台無しになってしまう。

 

こうなっては、と仕方なくこの話を美談に変えて吟遊詩人に伝え、今度は全国へ自分の人柄を売り込む翁。

 

するとなんと、全国で鶴を自作自演で助けて恩を売る輩が大量に発生。

 

そうして数が激減していった鶴こそが、タンチョウという種族。

 

彼らは必死に人の手を逃れ、釧路湿原でひっそり暮らすうちに、トラウマで人間の姿にはなれなくなっていった。

 

そんな姿が偶然、後世になって発見され、絶滅危惧種として保護されましたとさ、めでたしめでたし。

 

 

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このような話が、全く現実離れしているかというと、そうでもありません。

 

「エコテロリズム」とも呼ばれるような、過激な環境・動物保護を厭わない団体は、ときに自作自演で動物の命を危機に晒し、それにより保護を訴えるといった手段をとることもある、と聞きます。

 

それでなくても、いわゆる売名行為として、自作自演で動物愛護を取り繕うといった事件も過去ありました。

 

 

 

そんな人たちへの警鐘と、問題提起のために、こうした物語をつくりあげて訴えることは、もしかしたら一定の波及力があるかもしれませんね。

(どこまで大きな問題か定かではありませんので、仮の話として捉えてくださいね。)

 

 


 

※その他の類似施策は、以下URLにまとまっていますのでご参考ください。

アイデアの補助線(Pinterest)| ノンフィクションのフィクション化 の法則

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